こんなにもわかりやすい、今にフィットする「人生」という哲学を表現した本が他にあるだろうか。
難しい表現や言葉を使わずに自分のことのように読み進められる本書から
自分の存在について考えるエッセンスをまとめながら
人生という哲学について考察していこう。
比較という概念
「他人との比較」
これは社会に生きる上で必ず避けられないといえるものだ。
義務教育で与えられる通信簿の評価制度
同年代、同世代の比較
社会にでれば資格や役職による社会が設定する価値基準の設定や業績やノルマといった数値評価
スポーツにおいても、順位がつくことによる見える成績やランクという価値基準
これ自体は否定すべきものではない。
社会の秩序を相対的に取り決めないと混沌となるからだ。
そうであるからと言って、比較によって自分の価値が決まるわけではない。
ここが価値基準の怖いところだ。
他人と比較して自分の位置を決める行為はたくさんある。
みんなから褒められている自分
みんなからお金持ちだと思われている自分
みんなから成功していると思われている自分
みんなからモテていると思われている自分
すべて他人の評価によって、自分の価値を決める行為だ。
ここが問題だ。
悩みのほとんどは比較によって生まれているからだ。
そして、社会における比較による基準と、自分の価値は同じものさしでは測ってはいけないというところが
大きなトラップとも言える
同じものさしで測ってしまうと、 世間体と自分の価値観のギャップが生まれる
大前提として、自分の価値は他人との相対性の上にあるものではない
大切な人が傷ついているときに励ますように、自分のことも自分で励ますことが大切だ。
「おまえはおまえ、だれがどう言おうと関係ない。気にせず生きていけばいい」
自分にも同じ言葉をかけられるだろうか?
人の価値を合理性の中に見いだし、いかに生産性が高いかという基準にしてしまうと
生きる価値はなくなってしまう。
赤ちゃんは生きる価値がないのか?
生産性や功績を生きる価値基準にした場合、近い未来
技術進歩によって機械に仕事は取って代わられる。
その時生きていい人は企業の社長のみか。ノーベル賞を受賞した人だけか。あるいは首相たる役職の人だけか。
労働者や一般人と呼ばれている肩書の人達は、より効率のいい機械が完成したら大半の人間は死ぬべきか?
おそらくそうではないという意見がでてくるだろう。
そう、自分が生まれた意味は社会にいかに生産的に価値提供するかではないからだ。
だったら、すごい功績によって生産性が高まったことによる社会的評価にどんな価値があるのか。
その評価と比較して自分の価値を判断することが以下に無駄なことかと思い知らされる。
肩書とは他人が定めた枠組みに過ぎない
誰かがどんな社会的評価を受けようと、肩書きを得ようと、
他社である自分の本質的な価値はかわらない
自分の価値をどう捉えるか。
それは、自分のことを自分がどう捉えるかということ。
言い換えると、他人がどう、ではなくて、自分がどうありたいか
ということが自分の生きる価値であり、それを他人が決めることは決してできない。
成功とはなにか
成功とは結局 人/社会が決めた枠組みに過ぎない
自分がどうありたいかということを考えたときに
成功したいと考えるのは、他人の評価に自分の価値観を委ねる行為なのだ。
それは、他人の人生を生きることと同義ではないだろうか。
誰かが決めたGOALは自分にとってのGOALなのか
誰にどう思われるかではなくて、自分がどうありたいか
この考えの行き着く先にその人自身の成功がある
誰かが決めた成功や正解は自分にとっての成功でも正解でもない
自分が死ぬときに、なんのためになら死ねるか。
まだ死にたくない、と思ったとき何が頭に浮かぶか。
表面的じゃない、その人が本質的に大切にしているもの、求めてるもの
それを探す旅が人生を生きるということ。
その大切なもの、求めているものに近づく日々を送ることがその人の成功への道ではないかと思う
自分を好きになるってどうゆうことか
現代のバズワードである自己肯定感。
自分を自分で認めるということは重要だ。
ではなぜ自分を認めることが今求められているのか。
それは他人との比較によって、自分が劣っていると感じる場所があまりにも多くなったからだ。
誰と合うこともなくSNS上で自分と他人の比較をいともカンタンにできてしまう。
そんな劣等感を持っている自分でも自分を認めたいという欲求からきている。
つまり、ここでも自分の価値を他人との比較によって決めていることが根本にあり
他人の価値基準を生きることつまり他人の人生を生きている感覚を否定するように自己肯定感をもとめているのだ
自分の目の前にいる赤ちゃんをいたわるように
自分の中にいる赤ちゃんのような魂を大切にする
自分を否定することは自分の中の赤ちゃんをいじめる行為と同じ
自分を好きになるということに執着する必要はない。
赤ちゃんが存在するのはその存在自体に価値があるように、
自分自身と赤ちゃんの存在価値に差はない。
ただそのことを受け入れることができれば好きも嫌いもない、
ただ自分は自分ということを理解する事ができる
やりたいことは必要なのか
こどものころ、将来の夢を答えるときに
なりたいものを答えることがある。
これは、その大半が職業、つまり肩書きだ。
それを夢とよんでいる。
この夢という概念は社会が決めた価値基準の上にある肩書きを指すのであれば
それは順番が逆なのではないだろうか。
職業や肩書きはあくまで固有名詞でしかない。
自分がどうありたいか、その先にそれを表す固有名詞が出てくる
このブランドの価値観が好きだ、そのアイデンティティが表現に出ているこの服が好きだ。
はたまたなんとなく好きだでもいい。
でも、このブランドは一流のブランドだからこの服が好き
というのは順番が逆だと思うのだ。
どこまで行っても他人の評価や価値基準の上に自分の価値基準をあわせてしまっているいい例だと思う。
おとなになったら何になりたいではなく、おとなになったらどうありたいと考えるか
それは何者かになることではない
何者かは他人が勝手に決めるもので、自分で決める必要はない。そして、何者かにならなくてもよい。
そんな何者でもない自分が、
お金をもらえなくてもやっってしまうこと
それはなんだろうか。
例えば私は誰にどう言われるわけでもなくヨガをしたいと思う。
誰に進められるわけでもなくコーヒーをドリップしては飲んでいる。
音楽を聞いて、読書をしてしまう。
誰の強制もなく淡々とこうして気持ちを吐き出すように文字を起こしてしまう
そんな意識のないところや、自然に、勝手にやってしまうことに、やりたいことがあるのかもしれない。
相手のニーズに合わせること
ビジネスで基本中の基本
ニーズに対応するということ
それは社会と関わりあいを持ち、資本主義社会で生きていく以上
切り離せないことだと思う。
だが、だからといって自分を殺して相手の要求に応じることは
果たして正しいと言えるのか。
もし、その競争先が機械だったとして、その競争に全力を尽くすべきなのだろうか。
相手の求めることに果てなき労力を捧げるということは
果たして奴隷制度で労働を強いられる奴隷と何が違うのか。
しかもそれを拒否することもなく自ら受け入れる人生に満足することはできるのか。
その結果、売れたとしても、売れるというのはあくまで結果でしかない。
さらにそこに輪をかけるように頂いた給料というものでまた
他人の価値基準の上にあるモノへ消費することで労働の整合性を取ろうとしている。
本来人が価値提供するのは、その人個人が持つ特有の感動、価値観を持つ雫が
水面に落ちて波紋を描く。それが人々の波形と混じり合うことが「琴線に触れる」ということ
今の時代、一昔前の機械による大量生産の時代ではない。
ダイバーシティの時代で、機械と戦う必要はない。
個人が提供できる価値観が誰かの琴線に触れてものやサービスが売れる
その過程の中にどうすれば売れるか、もっと良くするにはという計算があり、
それはあくまで道具でしかない。
その道具をあくまで本来の目的であるかのようにすげ替えるのは順番が違うのだ。
ではどうすれば自分の価値基準を軸に社会で生きていくことができるのか。
そこには自信が必要となる。
自信がない、という人はおおい。
自信がない、という人のいう自信とは「権威」のことを指している
肩書や実績、経歴や承認が根拠となるもので、やはりこれも自分の評価を他人に委ねているときに自信がないと言いがちなのだ
ここでいう自信とは自己肯定感のことではない。
読んで字のごとく「自分を信じる」ということだ。
自分を信じることに根拠も理由もいらない。ただ自分が自分を信じる行為があるだけだ
何か好きなことや好きなものに理由はないことと同じで言葉にする必要もない。
そんな自信を持つために
自由であること。
自由であることとは、自分が自分に正直であること。
自分が自分に嘘やごまかしない状態。
言い換えれば、わがままになること
「我儘」つまりわれがまま。
そう、自分のままでいること。
何に対してもまず自分が一番にあり、自分自身が何を見たいのか、何をしたいのか。
その先に、自分の信じることが相手にとって良い影響を与えることができることの重なり合いの中に
価値を提供ができる状態で有るべきだ。
相手の琴線に触れない、価値観が合わない人に自分価値を押し付けるのではない。
重なり合いがあって初めて価値提供が成り立つ。
自信を持つために、わがままであるために
自分が自分であるための唯一の方法はその感情や考えを行動にうつすこと。
詭弁で終わらせないこと。
体験と経験が唯一確証に変わることだから。
行動に移すということが自分に嘘をつかず、ごまかさないという証明なのだ。
人生は遊園地
この本の表現の中に「人生を遊園地」にたとえていたのでその意味を考察してみる
遊園地で遊ぶときに、誰かがおすすめするコースじゃなくていい。
タイパ/コスパ時代の現代で影響を増している、
世間的・相対的・時間的パフォーマンスの高さを価値基準とするもの。
これは情報過多の現代において、納得の価値観であり、よくできた取捨選択手法だと思う。
だが、タイパ/コスパの価値観は現代における情報の取捨選択をするためのツールに過ぎない。
おすすめアトラクションが自分にとって必ず自分の好きなアトラクションとは限らない
全員がディズニーランドで同じルートを回る必要はない。_
自分が好きなアトラクションに乗りまくってもいいし、パレードのために早くから場所取りをしてもいい。
かくれミッキーを探してもいいのだ。
その遊園地の楽しみ方は自由であり、誰かが決めたおすすめルートをなぞることが正解ではない。
せっかく来た遊園地そこでどう楽しむか。それは自由な自分が持つ権利なのだ。
他人の思う楽しいに合わせる必要はない
人生という遊園地の主導権を他人に渡してはいけない。
人生の主導権を他人にゆだねてはいけない。
タイパ/コスパを優先する人生は、所詮他人の価値観にしかならない。
他人=世間=世界に振り回される必要はない
自分にとって、何が好きか、何が大切か、どうありたいか、どういきたいか
その決定権を自分で握り、何を選択するか、を問われているのが人生なのだ。
さいごに
資本主義がますます発展していく現代で
世の中は今でも十分未来はますます発展していく
便利と裏腹に情報過多による情報の過剰摂取とそれによる時間の消費
常に隣り合わせの世間からは切り離せない比較と評価、それによる世間の基準となる価値観の押し付け。
本書はこんな時代だからこそ、生まれた本ではないか、と思う。
自分と向き合う時間を取ることが本当に困難な時代だからこそ、意識して自分と向き合う時間を作り出すことが
重要ではないかと思う。
私は自己対話という考えを「ヨガ」を通して実践しているが
それがスポーツでも、趣味でもなんでもいいと思う。
夢中になれるものに行動を通して実践し、その自分の感情や価値観を内観/外観することで
自分軸を確立し、ぶれない自分の人生を歩む1歩を踏み出せればいいなと感じる。
生きる意味を問うのではなく、生きる意味が自分に問いかけているという
夜と霧の著者フランクルさんによると
自分の人生を生きるレールの上に社会、他人は存在するが
そのハンドルを握っているのは自分なのだ。
社会/他人と比較するものでも他人が決めるものでもない。
生きるという命題にどう答えるかは自分自身以外に決めることはできない。
じぶんと他社の関わりの中に社会は成り立つが、その社会に飲まれず、自分とはなにか
人生とはなにかに答え続けるというのは、自分自身の価値基準に沿って行動することにほかなならないのではないかと思う。
複雑怪奇な時代において、自分の人生のハンドルを握って人生を謳歌する。
それに正解を求めてしまう。だから誰かの正解という価値観を探し求めてしまう。
人生のハンドルを自分で握るといってもそれが難しいというのは本当にそうだと思う。
だから人は宗教を信じ、推しを応援し、辛いときの支えを求める。
それは間違っていない。その支えに持たれる度合いは自分で調節しなければならない。
本書は嫌われる勇気のような対話式の文章で本当に読みやすい。
小説のように背景描写もほとんどなく会話に集中できるのでサラッと
人生哲学に触れられる。
抽象的で答えがない哲学的分野をこんなにもとっつきやすく書籍にまとめたのは
著者自身の実体験であるところが本当に大きいと思う。
体験談をよりわかりやすい設定にすることで著者のエッセイではなく、読者の感情にも入っているストーリーになっているところも
素晴らしい。
本書の感想も交えて自分の意見も混じらせて今回本書について書いてみたのでかなり抽象的になった部分もある。
本書はもっとシンプルに、わかりやすくなっているので、ぜひ読んでみてほしい。
また、この記事が自分の人生や比較のない自分の本質とはなにか、を考えるきっかけになれば嬉しい。
では、また。
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