先日のヒカルパイセンに聞け。の中で宇多田ヒカルさんが
生きるとは、という質問に対してのコメントを答える際に参考例を挙げていた
『夜と霧』
という本を読み終えて、生きる意味について考える機会を得たので
今の気持ちと合わせて書いてみる。
まず、『夜と霧』とは
発行部数900万部以上、約70年以上にわたって読み継がれている名著である
著者は心理学者アドラーさんの弟子で、認証心理士であったが、
第2次世界大戦中のドイツ内で、ユダヤ人という理由から強制収容所に監禁され
人権の無い世界で毎日労働を強いられ死と隣り合わせの生活から奇跡的に生き残ったヴィクトール・E・フランクルさんによる
収容所生活を経て『生きるとは』という人類の命題に彼なりの答えを記載した本となる。
概要は
・収容初期の体験と心の変化
・収容生活の様々な体験の記録
・収容所を出た時の気持ち
大きく3つのブロックで書かれているので、興味があれば一度読んでみてほしい。
生きるとは
さて、本書の肝である『生きるとは』
について簡潔にまとめるとすると、
生きることとは、生きることの問いに正しく答える義務を引き受けることに他ならない。
この場合、自分の生きるという観点に対して、その問いに答えるのは自分で、
生きることが主語で、私達はその問いの前に立たされているという事だ。
生きることに正しく答えて初めて自身の生に唯一無二性を持っていると感じることになる。
私なりの解釈と『比較』という概念
正直に言うと、私はこの本を通してまだあまり生きる意味ついてはピンと来ていない。
生きることに対して自らが問うのではなく、生きることから問われていて、それに答えることが
生きる意味だなんて書いている今の時点でも意味がこんがらがってよくわからない。
ここで私なりの解釈をするならば、現代における生きる意味について考えた時に
自分が頭に浮かんだのは、「あまりにも他人と自分を比較して自分を評価している事があまりにも多い」と感じた事だ。
比較から自分という存在を自己評価して自分はどんな人間か決定している事に疑問を感じた。
比較から生まれる自分の『生』は自分の生に間違いはない。
ただ、その生は自分の人生を生きていると言えるのか。
否それは他人の人生を生きているということにならないか。
同じ年齢で年収1,000万の知り合いの噂
先日、私の知り合いが今年の年収は1,000万を超えるという噂を聞いた。
もとから給料がいいとは聞いていたが、具体的な数字に私は
悔しくて切ない気持ちになった。
その時は少しばかり、自分の能力と給料が見合ってないのではないか、とか
その年収1,000万の人が同じ業界にいれば同じ年収になる事はないのではないか
などいろいろ考え、今の自分の会社や業界を悪者にする事で気持ちを納得させたのだが
そもそもその人と年収を競争する事が私の人生のテーマではない。
その人が持っているもの(今回なら年収)をうらやんでいても無いものはない。
しょうがない。もし同じラインに立ちたければ独立したり転職したりして
到達する努力をすればよい。
そして、その人が持っていないものを私が持っているものもある。
そうであるならば、それを1つずつ比較していく作業から満足感を得ることに何の意味があるのだろうか。
自分と向き合った時に何が大切かを考える。
他人との比較ではなく、ただ自分の価値観に問いかけて求める目的に進む為に努力をしていきたい。
ブログは誰かのため という強迫観念
例えばブログの話をすると、誰かが読むからきちんとした意味のあるものを書く必要がある。
などと深く考えれば考えるほど書くハードルがあがるし、頑張って書いたからと言って
それが読者の求めるモノになっているかというとそうでないことも多い。
つまり、誰かのためにって意識しすぎてもだめである。
それは傲慢な押し売りになる。
認知もない今、なにを書いても大した影響力もない。今思う事を書くだけ。
そもそもブログを書くという行為自体に楽しいというポジティブな気持ちがまずありきだということ。
いつのまにか自分が悲劇のヒロインになっていないか
自分が悲劇のヒロインになる方法はとっても簡単。
他人と比較して隣の芝が青い事をうらやむだけだ。
何かと比較して自分は不幸だという位置づけをする事は本当に容易だ
夜と霧は現代の生活では体験できないほどの死と隣り合わせの体験が書かれている。
この本を読んで気付かされたのは、無いものをひたすら羨み、既に手にしている幸せなことには
見向きもせず、自分よりひどい環境の人との比較はせず、ないものねだりをしていることに気付かされていること。
そして、重要な事は、上も下も比較することに意味は無い。という事だ。
結論 生きることに比較はいらない
生きることは自分の生を自分で全うする事。そこに他人との比較は一切いらない。
自分が生きることから問われている。問われている事に答える義務がある
この答えに対して私自身も今はピンと来ていない。今、それぞれの自分に向き合い、問われている事に答えていく事。
もはや哲学の領域だと思うし、正解も分からない。ただ、生について答え続ける事がつまるところ生きることの意味だと言う事だ。
本書は現代では絶対に経験しえない事を体験した自伝であり、実体験を心理学の観点から第3者の観点で淡々と出来事を綴り、その時の気持ちや身体の状態を俯瞰で書いているからこそ学術的観点においても、体験談や自伝、というくくりにとどまる事が無い。
自伝/体験談/収容所の実態報告書/哲学書/学術書
そのどれ物側面を持つ本だ。
それゆえに自らの懐にすんなり入れこむのは難しいが、やはり自身が体験しえない事を知れるという観点においては読んでみる価値は十分にあるのではないだろうか。
私も生きることに対して自分なりに答えていきたい。
では、また。
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