今回は、2008年にはニューヨーク・タイムズが「アメリカで最も人気のある精神世界分野の著者」と評した
エックハルト・トールさんの著書「ニュー・アース」を読み終えたので
要点をまとめてみる。
瞑想を実践していく中で、瞑想をどうやって達成するのか、という言語化しにくいテーマについて、
禅の世界では、「Just Sit Down」
やってみないとわからないという方針ではあるものの、
やはり瞑想の良さをなんとかわかりやすく、かつその深みまで解析した本にはなかなか出会えない。
瞑想を実践する上で、世界的に有名な本書を通ることは王道だと思われるが、
それにしても少し難解な部分があるので、とっつきにくい本でもある。
自分自身の内容整理と、瞑想についての向き合い方について
要点のみ説明できれば幸いだ。
1 なぜ瞑想するのか
なぜ瞑想するのかを簡潔に答えれば、「エゴの解放」という言葉がしっくりくるだろう
エゴに振り回されない人生とは何かを考えるための瞑想という言い方もできる。
最初に、結論となるエゴに振り回されない考え方をまとめておく
1 抵抗しない
事実は受け入れる
2判断しない
事象に対してラベリングしない
3執着しない
気にしない
4これもまた過ぎ去るだろう
This too shall pass
最後にこれらの各キーワードについて詳しく解説していく。
2 自分とはいったい何なのか
私はアイデンティティというキーワードについて、よく考えることがある。
自分とはなにか、自分らしさみたいなものを表現すること。
はたまた自分が存在する意味的なものを考えることがままある。
そもそもこの手の話に答えはないし、正解もない。
ただ自分が納得できるかどうか、それだけだ。
その中で自分とはなにか、という観点について本書で考察していく中で、
エゴという概念について詳しく書かれている。
本書の肝は、このエゴという概念を自分と同一化することは間違いだという指摘だ。
たとえば、
「自分探しをしている自分って誰?」
「自己肯定感を高めている自分と自己肯定感が高まっている自分って誰?」
このように、自分は自分なのに、自分を探したり、自己肯定感を高める/高められる自分は分かれることは本来ない。
なぜこんなことが起こるかというと、ここにエゴというものが介入しているからだ。
3 エゴとはなにか
エゴとは自己という意識・思考の形であり、感情パターンの塊である。
つまり、思考や感情というものはエゴが生み出したものだ。
「私の思考」という表現はできるが、思考は自分、とは言えない。
「私の思考」という表現はできるが、感情は私、ではない。
じゃあ「私の思考、私の感情の、私って誰?」
ということになる。
私・自分とは、思考や感情、を見ている者だ。
つまり、私というエコが存在するが、エゴは私ではないということだ。
4 欲求との向き合い方
基本的に欲求への執着はは生物上尽きることがない。
モノに対する欲求や性に対する欲求など人間でない生物ですら本能的な欲求というものが存在する。
モノやヒトを評価して大切にするのはいいが、それに執着を感じたらそれはエゴだと気づかなくてはならない
生物上欲求をなくすことはないといったが、そもそもモノへの執着という表現は間違っている。
モノに込められた「私」、「私の」、「私のもの」という思考に執着しているという表現が正しい
モノやヒト自体はそれ以上でも以下でもないが、「私」、「私の」、「私のもの」という
エゴを加える行為によってエゴによる執着が生まれている。
ここでいう「私」、「私の」、「私のもの」というのは
「私(エゴ)」、「私の(私のエゴ)」、「私のもの(私のエゴのモノ)」という概念であり、私とエゴは同じではないことに気づかなければならない
存在を意味する「Being」と
私はあるを意味する「I am」という違いが、自己という意識に対して、エゴをまとっているか、まとっていないかと違いだ。
モノ、他人、資格や地位などの肩書に自分を見いだそうとしないこと。
すると執着は自然に消える
5 他者批判の心理
批判という行為は、エゴイスティックな心のパターンのひとつで、
エゴが生み出す架空のアイデンティティを確立するために他者を批判し、
自分のエゴを正当化することでアイデンティティを確立する行為だ。
他者をを批判し、それでいて他人にどう見られるか、で自分自身をどのように見るかを決める。
エゴが生み出すアイデンティティというものは、他人の評価をもとにするアイデンティティであり、
他人にどう見られるか/自分はどういう人間か、何者なのか、
を映し出す鏡とすることで他人という架空のイメージがもととなるアイデンティティである。
わかりやすい例えとすれば、
何をどれくらい持っているか(所有しているか)で自尊心が決まる生活を送っているようなものだ。
では、(エゴが感じる)他人からみた架空のアイデンティティに対して、どうすればよいのか。
その答えはシンプルだ。ものに自分を見いだそうとしないこと。
エゴによる執着に気づいている、その気付きが私(アイデンティティ)となる
「私(エゴ)」、「私の(私のエゴ)」、「私のもの(私のエゴのモノ)」という「所有」に自分の価値を憑依させないこと。
イエス・キリストの教え
「敵をゆるせ」
これは自分の心のエゴイスティックな構造を解体しないさいということだ
他を避難して当然の状況であっても、他を避難している限り、自分の思考によってエゴを増大させてしまい、エゴの罠から逃げられない
6 状況への批判もエゴ
状況に不満や恨みを持ち、敵とみなし、現在の自分(正しくは自分のエゴ)を正当化させることで自分(正しくは自分のエゴ)を守ろうとする。
他者批判にしても、状況批判にしても、自分が正しいという思いほど、自らのエゴを強化するものはない。
そして他者がいるからこそ私という概念の輪郭がはっきりとする
どうすればよいか。
こちらも先程他者批判の対応と同様に、自分の中のエゴに気付くことでエゴから開放されることが必要となる。
少し踏み込んでみよう。
自分のエゴに気づく、と言うが
どうすればエゴに気付くことができるのか。
自分のエゴに気付く方法。それは「今、この瞬間を感じること」
例えば、「光は音より速い」
これを事実として観察することと、
なぜ「光は音より速い」という私の言葉を信じないの?という考え方。
この2つには大きな違いがある
前者は起こった出来事をそのまま表現しているのに対し、後者は「私」という部分に力が入っていて1つの見解を担っている
これがエゴの存在有無だ
この「私」という部分をとりわけ意識することがエゴを意識していることになる。
「今、この瞬間を感じること」これは、私というエゴへの執着を手放すことを意味する。
「今、この瞬間を感じること」
これを達成する方法に「瞑想」というものが大きく役に立つ。
なぜなら、「瞑想」という行為が達成することこそが「今、この瞬間を感じること」だからである。
7 ネガティブとポジティブ
ネガティブな感情とはなにか?
身体に有害でバランスの取れた安定した機能を邪魔する感情である
恐怖、不安、怒り、悪意、悲しみ、憎しみ、憎悪、嫉妬、羨望
まるっと言い表す言葉が「不幸」
不幸になり得る感情すべてがネガティブな方向の感情である。
もちろん、このネガティブな感情が心身に対していい影響があるかといえば、そうではない、
と答えるのが一般的と言えるだろう。
ではポジティブな感情は身体によい効果を及ぼすのか?
本書ではポジティブに対しても全面的にいいとは書いていない。
ポジティブにも、エゴを含むポジティブとエゴを含まないポジティブがある。
エゴが生み出すポジティブには反対物が含まれていて、瞬時に反対物に変化する可能性がある
エゴが生み出す愛と呼ぶものには独占欲や依存的な執着が含まれている
「私の」という執着や、見返り、こうであるべきというエゴによる主観的見解を有していると、
思い通りにならないときに意図も簡単にネガティブに反転するのだ
このように、エゴを伴うポジティブはネガティブと表裏一体であるため、いい感情ではないといえる。
一方で、エゴを含まないポジティブな感情が存在する
見返りを求めないギブがそれに当たる
今にあるという状態による反対物がない状態
過去に支配されること
未来に執着してしまうこと
今にフォーカスして今を生きる連続性を続けること
記憶に支配されるか、支配するか。
その違いは今にあるかどうか。つまり過去の記憶をただその事実として捉えるか、はたまたその記憶に思考や感情と結びつけて思考や感情のままに解釈、行動するかどうか。
自己肯定感の話に戻るが、
自己肯定感が低い、という行為には
自分を卑下することで、自分に対する期待に裏切られることがないという感情から
自ら自分を卑下することで自分自身を守っている行為だ。
自分という唯一とも捉えられる最後の希望に絶望したくないという自己防衛からネガティブ思考は生まれる
だからこそまずはすでにある自分の人生の豊かさを認めること、それがすべての豊かさの基本だ
ネガティブな自分、というラベリングをしているだけで、それはあなた自身ではない。
ネガティブな自分というラベリングだけで本質は変わらない。エゴが自分にラベリングしただけだ
8 エゴとの決別の方法
本書では、エゴとの決別の方法として、「現在を友人とすること」と記されている
つまり、「いま、この瞬間」、「いまこの感覚にフォーカスすること」
いまこの感覚にフォーカスする手法としては、「瞑想」が有効だ。
なぜならエゴは決して現在という瞬間と仲良くできないからだ
エゴは時間(未来と過去)と密接な関係性があり、「いま」との共存が難しい
執着しないとは
いいものを楽しまないということではない
ただ、変化することや終わりを迎えることを知って受け入れること
「私は現在という時とどんな関係にあるだろう?」と自分に問いかけることで
エゴがどう感じているのか確認できる。
そうすると、エゴと自分が分離され、「エゴはこう感じているんだ、こう考えているんだ」
とエゴを客観的に見ることができる。
それができれば、あとは分離したエゴを客観的に観察し続けることで、ぼんやりと分離された自分がより
鮮明にわかれる。
瞑想とは、このエゴを客観視する脳のトレーニングとも言えるのだ。
9 瞑想で達成するものとは
最後に瞑想で達成するものについてまとめていこう
エゴとの決別をするために瞑想の実践ががよい、と上記で書いてきたが、
瞑想は1つの手段としてであり、まずはエゴとの決別のための心構えを振り返る。
1 抵抗しない
エゴと決別するためにまず、物事の事象に対して抵抗しないという考えが第一ステップとして達成したい心構えになる
これは事実は受け入れるということだ。
2判断しない
事象に対してラベリングしない。
ただ、そこにある事象を事実として認識するだけで、それがもたらす影響や感情は
エゴが生み出す未来、過去という時間を超えた今にない状態だ。
3執着しない
存在を意味する「Being」と私はあるを意味する「I am」という違いを認識し
エゴを手放すこと。
4これもまた過ぎ去るだろう
This too shall pass
今感じている感情、思考の伴う事象すべて、永遠には続かない。
これもまた過ぎ去るだろうという概念をもてば
抵抗せず、判断せず、執着しない
生き方ができるだろう
10 ニュー・アース 〜新しい門出〜
最後に本書に記載してあるアクションをまとめてみる
・受け入れること - 受け入れることで安らぎを手にする
・楽しむこと - 生命感が生まれる
・情熱を燃やすこと - 喜びを伴う
アクションを起こす上で上記のマインドが重要とされているが、
頑張るという意識とは異なり、ストレスを伴うものではない。
ただ意識が躍動する波に乗る感覚に近い。
ストレスはエゴであり、情熱は意識である。
この違いを理解してアクションを起こすことでエゴとの開放が達成される
11 最後に
なるだけシンプルにわかりやすく、という自分の整理も含めて今回本書についてかいてみたが、
なかなか自分の言葉に置き換えることが難しく、引用が多くなってしまった。
というのも、自分の言葉に置き換えたときに、本書の本来の内容との乖離が生まれてしまいそうだということと
自分自身が本書について要約できるほどに理解できていないということなのかもしれないと感じた。
それでも、瞑想を生活に取り入れている身として、理解できる部分や理解できる部分はあり、
それを言語化している本書はやはり素晴らしい。
なぜ瞑想をするのか。それを見つけるために瞑想しているという哲学的な締め方もできるが、
やはり本質となる「エゴ」と自分という存在を分けること。
このエゴの存在を300ページにも渡り深層部まで解説してくれる本書から、より瞑想でなぜ
「今、この瞬間」を感じることが大切なのか理解できた。
エゴとの決別をすることでまるで悟りを開くかのような内容ではあるが、
まさに現代における情報過多な時代において、
周りに振り回される人生、もっと言えばエゴに振り回される人生から
私の「Iam」ではなく、「Being」的な人生を謳歌するために、エゴと向き合い
これからも瞑想をしていこうとおもう。
では、また。
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